僕のあまのじゃく#7
ティモンディ前田裕太さんの人気コラム【前田裕太の乙女心、受け止めます!】がリニューアル。
ガラリと雰囲気を変えて、毎週変わるお題に沿って、前田さんに自由に言葉を紡いていただくブリースタイルエッセイ【僕のあまのじゃく】をお楽しみください♡
前田裕太(まえだ・ゆうた)
PROFILE:1992年8月25日、神奈川出身。グレープカンパニー所属のお笑い芸人ティモンディのツッコミ、ネタ作り担当。愛媛県の済美高校野球部に所属した同級生・高岸宏行が相方で、2015年1月に結成。2人の野球経験を活かした『ティモンディベースボールTV』の登録者数は23万超え。ar web連載『僕のあまのじゃく』では、フリースタイルエッセイを毎週お届け中。
テーマ:「ドーナッツ」
ドーナッツは至福の味。
人生で初めて食べたのは小学校4年生の頃だった。
スイミングスクールで平泳ぎをマスターした私が、4級から3級へ着実に人生のステップアップを成し遂げた時、母親が帰り道でドーナッツ屋さんに寄って、ご褒美として買ってくれた。
当時は柔らかい甘さとモサモサとした食感に愛おしさを覚え、これが愛というものか、と悟ったものだった。
私は、ドーナッツという存在そのものを愛していた。
大学生になるまでは。
私とドーナッツの関係はある本との出会いで瓦解することになる。
ある日、「ドーナッツは穴を残して食べることは証明できるか」という本を見つけたのだけれど、その本は、色々な人がドーナッツの穴を残して食べることが可能か、という問いに対して証明している内容だった。
当時の私は、ドーナッツが大好きだった。
そして、暇だった。
そんな大好きなドーナッツの事なのだから、私もドーナッツの穴を残して食べることができるか考えてみようという思考に至るまでに時間は要しなかった。
そこに答えを見出してもなんの意味もないのは分かっているけれど、最早私は止められない。
無駄だと分かっていることでも掻き立てられてしまう。
これが愛の力なのである。
早速4畳1間のボロアパートで紙にペンを走らせた。
穴の周りのドーナッツを食べてしまえば、穴を形作っていた物体=ドーナッツという空間を仕切るものを失ってしまう。
では、その穴は存在が消失してしまうのか。
長きに渡り思考を続けた結果、私なりの1つの結論に至った。
ドーナッツひとつで広がる∞の発想
ドーナッツは「輪」と「穴」の2要素から構成されていて、輪は、ドーナッツの穴という空間をその場に留めるために抑えつけている、言わば枷のようなもの。
ドーナッツを食べれば、当然のように輪の部分が消滅するけれど、穴の部分は、その輪郭を失い、ドーナッツの穴と認識されていた空間は空気中に溶け込み、広がっていき、どんどんと面積を増やしていってしまう。
つまり、輪を食べた時点で穴は境界線を失い、見境なく増えていき、結果として最終的には私たちの周りすべての空間がドーナッツの穴となってしまう。
輪を食べた時点で、私たちの空間全てがドーナッツになってしまうのだ。
怖かった。
そのような意味不明な思考に至った自分にも、その答えそのものにも。
そんなまともな人間が私の周りに少しでもいたら正気が取り戻せたのかもしれない。
ただ、私は当時所属していたサークルのメンバーにこの事を言うと、「いや、ドーナッツの穴は人間が作り上げた偶像にしか過ぎない。輪を食べても偶像は残り続ける」と言う者や「穴は空間ではなく座標点。輪がなくなってもその座標点に穴だった物は認識できないだけで残り続ける」と言う者が現れ、ただでさえ混沌とした理論だったのに、異端児達が面白がって議論に熱を上げる事態となってしまった。
止める者などどこにもいなかった。
そして、私はドーナッツが少し苦手になってしまった。
ここで教訓を得たのは、本当に好きなものは、深く探究し過ぎず、気楽に楽しく適度な距離を保つということだ。
あの時間は、今思い返しても、好きなものが嫌いになってしまっただけで、プラマイゼロ、むしろマイな意味のない時間。
だけれど、そんな時間の方が思い出として深く残っているのも皮肉である。
ー完ー
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