僕のあまのじゃく#16

ティモンディ前田裕太さんの人気コラム【前田裕太の乙女心、受け止めます!】がリニューアル。

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ガラリと雰囲気を変えて、毎週変わるお題に沿って、前田さんに自由に言葉を紡いていただくブリースタイルエッセイ【僕のあまのじゃく】をお楽しみください♡

テーマ:「ひとり遊び」

私には幼馴染みがいる。
幼少期から住んでいたマンションには同級生の女子が3人いて、小学校低学年まで彼女達とよく時間を共に過ごしていた。

下校の時はみんなでよく一緒に帰ったりしたし、帰ったら帰ったで私の家に親がいなかった時なんかは、その同級生の家で面倒を見てもらったりして大変お世話になったのを覚えている。
ただ、その彼女達の家に行くと、その度におままごとに付き合わされた。
これが私には苦痛だった。

というのも、私は家で一人でレゴブロックをしたり絵を書いたり、ゲームボーイや64に齧り付いていて、一人遊びが好きだった。
レゴブロックは、自分で満足いく作品ができれば完成で終われるし、ゲームは目指すべきゴールが定まっているからやりがいがあってとても楽しかった。

一人じゃない時は弟を巻き込んでポケモンの指人形で戦う遊びをしたり、公園に行けば同年代の子達と鬼ごっこをしていたけれど、どんな遊びよりも、一人遊びは自分の世界で完結できるから好きだったのかも知れない。
それが、彼女達とやるおままごとはどうだろう。

まず、自分のさじ加減ではやめられない。
親が迎えにくるまで永遠と続く家庭生活シュミレーションは、自分の飽きたで終了できないのもしんどかった。
惰性でやっていると「ちゃんとやって」と同年代から叱咤されたのもあの時が初めてだったかも知れない。
まだ勝ち負けがあればそれに注力できるものの、熱量を向ける矛先が存在していない遊びも珍しい。
それに、勝手に自分の役割を決められる割には、やらなければならないタスクもない。

それも犬役を命じられた時は屈辱だった。
「散歩に行くわよ」とお母さん役の同学年の女の子の一人に連れられて、四つん這いで部屋を徘徊させられる。
この辱めたるや他に類を見ない。
「電柱におしっこしなさい」と謎の命令をされ、指さされた壁に向かって片足をあげて用を足すポーズをしている時の私には人権という概念は存在していなかった。

お父さん役の子によしよしと頭を撫でられて、癪に触ったので手で振り払ったら「違う」とたしなめられたりもした。
何が違うのか分からないまま戸惑っていると、「エサだよ」とおもちゃのお皿におはじき3つを差し出される。
「食べなさい」と促され、四つん這いでヘッヘッへとなるべく犬に近い声を出して食べているフリをしたけれど、人としての自尊心が失われていく時間だった。

犬役を楽しめる人類はいるのだろうか

この理不尽の中で育った男の子が真っ直ぐに育たないのは明らかだろう。
日によってはお父さん役やお兄ちゃん役を命じられたこともあったけれど、一度犬役を経験した人間は、もう純粋におままごとに対して取り組むことは出来ない。
私はもう犬の扱いをされた側の人間なのだ。
ワンと鳴けと言われれば鳴くし、お手もおかわりもしつけされた児童は、既に大切な何かを無くしてしまった。

その後、セーラームーンごっこに付き合わされた時には、見たこともないタキシード仮面を雰囲気で演じなければいけなくなり、彼はそんなこと言わない、だの助けに来るタイミングが早い、など演技指導を受けることになったのだけれど、さっきまで犬をやっていた人間をよくすんなりとタキシード仮面として接することができるなあと子供ながらに女子たちの切り替えの速さに感心したものだった。

おそらく犬を引っ張っていたのは私だけだったのだろう。
友人達とレンジャーごっこをしたことがあるので、まだセーラームーンごっこは楽しいのだろうなと理解できるけれど、おままごとに関しては、あれはみんな楽しんでいたのだろうか。
加えて言うのであれば、あの犬役を楽しんで出来る人っていたんだろうか。

大人になった今でもプライベートで大人数集まってワイワイと楽しむことがなくなってしまったのは、どんな遊びであっても犬役のような役割があると危惧してしまっている節があるからなのかも知れない。

如何なる遊びにも不服に感じる役割があるのではないだろうか。
全てをおままごとのせいにする訳ではないけれど、自分の好きに使える時間は、なるべくストレスのない一人遊びで充実させていこうと思う。

ー完ー

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