僕のあまのじゃく#18

ティモンディ前田裕太さんの人気コラム【前田裕太の乙女心、受け止めます!】がリニューアル。

▷▷これまでのコラムはコチラから◁◁

ガラリと雰囲気を変えて、毎週変わるお題に沿って、前田さんに自由に言葉を紡いていただくブリースタイルエッセイ【僕のあまのじゃく】をお楽しみください♡

テーマ:「イルミネーション」

皆がこぞって地に足が着かなくなる季節になってきた。
この時期になってくると、街は浮かれた人に呼応するようにイルミネーションで飾られ始める。

普段の景色では見向きもしない人間達が、LEDの電飾をまとわせるだけで光に足を止めて、なんなら写真を撮るために遠方から遥々足を運んで集まっている光景をよく目にするけれど、その度に私は、深夜の自動販売機の光に群がる虫のようだなあ、と連想してしまう。
正直、私からしたら蛾と大差ない。

イルミネーションという響きのいい何語かも分からない言葉で誤魔化されているけれど、その実態は、生き物そのものが光に集まるという本能を持っていて、無意識に集まってしまっているだけなのかもしれない。

何故、イルミネーションに心を惹かれるのか問うと「なんか綺麗だから」としか答えられず、具体的に言語化出来ないのは、もはや動物的な感覚であり、光に反応している蛾となんら変わらないではないか。
学生の頃、友人に対してそんなことを口にしたら幻滅されたのを覚えている。

その時には「お前はロマンがない。女性は輝く光源そのものだから自身と同類である光が好きなんだよ」と
まだ彼女が出来たことのない友人に指導を受けたけれど、その理論で言えば、男性はいよいよ蛾と変わらなくなってしまう。

おかしいと声を上げても、電飾に対してそんな意見を持っている方がマイノリティであって、誰からも相手にされなかった。
イルミネーションに力を入れている所を通り過ぎる度に写真を撮る群衆が跋扈(ばっこ)しているけれど、その大半がSNSで我プライベート充実している者なり、と大声で主張したいだけのようにも思える。
思い出なら写真は程々にして景色を網膜に焼き付ければ良いのに。

景色を楽しむことよりも、良い写真を撮ってSNSにあげることの方に重きを置いている姿を見ると、実に情けない。
地上にばかり目を向けず、空にある天然のイルミネーションである星に目を向けよ、と思う。
何億光年も離れている星の光こそ地球に届いているロマン、わざわざイルミネーションなど見に行かずとも、十分に素敵な景色がそこに広がっているのではないか、とキャッキャ騒いで写真を撮る乱痴気どもに怒りを覚えている。

と、思いきやの事実発覚

けれど、どうもイルミネーションのことを調べると、どうも私の考えも的外れのようだ。
そもそもイルミネーションは宗教革命家のルターが考えたとされたそう。
ルターが考えたとあれば、話は変わってくる。
私は権力者の意見に弱い。
彼が作ったものであるならばそれに魅力を感じる我々が蛾である訳が無い。

発案した人が歴史的な人だと単なる灯りにも含蓄があるように感じられてしまうのは、私が長い物にはよだれを垂らして喜んで巻かれる、浅ましい根性を持っているからなのは言うまでもない。
どうやらルターは森の中を歩いている時に、夜空を見上げたら星々の光が美しくて感動し、木々の枝に多くの蝋燭を飾ることで、その景色を違う場所でも再現しようとしたらしい。
なんとロマンチストな男であろうか。

その蝋燭が今はLEDの電球に代わって今のイルミネーションに至る訳なのだけれど、要は、イルミネーションは夜空の再現なのだ。
私はことある度に夜空の星の方が魅力的だと思っていたけれど、遥か遠くにある星を地上に降ろして側で星々を感じるために、地上で明かりを灯すようになったのが始まり。

アベック達がこぞってイルミネーションを背景に写真を撮っているのは、単に寒くて人肌寂しくなった者たちが身を寄せ合って、孤独に耐えきれずにせめて視覚だけでも明るくして充実した感覚を錯覚でも良いから感じたい、と願っているものだとばかり思っていたけれど、美しい星々が飾る夜空に感動する人間性がみんなに宿っているから、ここまで我々は心躍らされ、足を運んでまで見にいこうとするのかもしれない 。

我々は蛾ではない。
小学生でも分かるようなことだけれど、イルミネーションを調べたおかげで虫と自分の違いが明確に分かったので、今宵は安心して枕につこうと思う。

ー完ー

これまでのコラムは▷コチラ◁からチェック!

ティモンディ前田裕太「マンホールは人となりを映す鏡」【僕のあまのじゃく #17】

ティモンディ・前田裕太「売れても変わらないようにするにはどうすれば?」クレバーすぎる頭のナカ