僕のあまのじゃく#20

ティモンディ前田裕太さんの人気コラム【前田裕太の乙女心、受け止めます!】がリニューアル。

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ガラリと雰囲気を変えて、毎週変わるお題に沿って、前田さんに自由に言葉を紡いていただくブリースタイルエッセイ【僕のあまのじゃく】をお楽しみください♡

テーマ:「自分」

私のような万事に対して右往左往し醜態を晒しながら生きていく人間にとって鏡なんていうものは見てられないものであって、仕事の質向上のために自分と向き合うことはあったとしても、根の部分なんて目も当てられないから人様に見せられるものではない。

この間もまた道端で財布を落としたし。
部屋の中ですら物よく失くすし、たまに左右違う靴下履いて家出るし。
普段から仕事のたびに反省するためのノートへダメだった所を綴っているけれど、見返してみても半年前と然程反省している内容に変化もなく、お前は幾ら経っても悪い点が直らないなあ、つまらない人間め、実力もなければ、才能もない、と叱咤する毎日。

どの日にも「お前はたいした人間じゃない」という旨の言葉を書いていて、毎日反省するがあまり自己肯定感を自ら下げているような気もする。
その自らの醜さを誤魔化すために沢山の言葉で着飾って、着膨れした状態でないと人前に立てないようになってしまった。

いつからこんな卑屈になってしまったのだろうか。
幼い頃の私はすこぶる可愛かったのに。
純真無垢な笑顔を周囲に振りまいては周囲をも笑顔にし、幸せの爆心地とまで言わしめたほど。
幼稚園の頃には、女子二人が両手を各々引っ張って私の取り合いになり、二人とも前田はいなくならないから大丈夫だよ、と6歳の御令嬢達をなだめたものだった。

それがいつからだろう、心に万年床のようなカビが生え、シミや黄ばみで見るに耐えなくなってしまった。
両サイドで引っ張り合っていた御令嬢は気がついたら姿を消し、気がつけば嫌味に終始するスタッフが周囲に集まる始末。
ってか、そもそも自分のことを好きだと胸を張って言える人間なんているのだろうか。

私の人生は〇〇だ

お金を不特定多数に配る大人も、幸せを全身で享受しているハッピーおじさんなのかと言われたら実際のところはどうかわからない。
お金配りおじさんは今や地球にすらいないけれど、お金持ちは往々にして不幸というのは相場が決まっている。

両手放しで幸せだ!と街路を踊り歩いているなんてモテキの森山未来くらいだろう。
であるならば、いつになったら自分のことを好きになれるのだろうか。
最早考え方を変えなければ幸せは訪れないような気がする。
そう思い、最近ではこう考えてみるに至った。
縄文時代に生まれなくてよかった。

もし縄文ならこうやって高円寺にあるお気に入りの純喫茶に入って執筆活動なんて勤しむこともできず、猪を狩るのに四六時中奔走しなければならないところだった。
江戸時代に生まれなくてよかった。
将軍の命令に対して「おかしいだろ!」とがや席から立ち上がってツッコんだ時点で打ち首間違いなし。
バブルは良かったと過去の繁栄にノスタルジーを感じる者もいるけれど、医療技術の発達やネットの普及など諸々を考えると常に今が最高に違いない。

要は、当たり前のようなものでも恵まれていると満足しないといけない。
人生とは、公衆便所なのだ。
基本的に多くを望んではいけないし、当たり前のものでもあったらラッキーと思わなければならない。
公衆便所も、用を足せるだけで感謝しなければならないし、清潔で綺麗だったらラッキー。
期待をしていないからこそ、掃除の行き届いた綺麗なトイレに当たると感動する。

私の人生は公衆便所だ。
そう言うと、自尊心があまりにも低くなったように聞こえるかもしれないけれど、自分自身の幸せの享受のために、少しの期間はこのスローガンを元に生活していこうと思う。

ー完ー

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