僕のあまのじゃく#87

ティモンディ前田裕太さんの人気コラム【前田裕太の乙女心、受け止めます!】がリニューアル。

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ガラリと雰囲気を変えて、毎週変わるお題に沿って、前田さんに自由に言葉を紡いていただくフリースタイルエッセイ【僕のあまのじゃく】をお楽しみください♡

テーマ:懺悔

私という人間は極端な性格で、こうするぞ、と自分で一度決めたことは曲げられない難儀な生き方しかできない。

幼少期に父親から「男ならやると言ったことは、やり遂げろ」という教育を受けたのが、強く影響しているからだろう。
今であれば生まれた属性で生き方を強いるなんて断罪されるべきなのだけれど、私が生まれた頃は男らしさ、というのは称賛される対象にあったのだ。

小学3年生の頃、相武台ファイターズという少年野球チームに入りたい、と思った時にも父親から「やるからには本気でやれよ」と言われたのを覚えている。
たまに練習を休みたくなる時に弱音を吐いたら「やると決めたならやるんだ」と叱咤され、熱を出した時も怪我をした時も、関係なく練習に参加することになった。
一度やると決めたのだからと、雨も日とかも関係なく1日のノルマとして課された自主練を小学生の頃から続けてきた。

他にも色々と両親からの影響を受けたけれど、こうして”やると言ったらやる”という言葉は私の人格の核の部分になっていったのだ。
その言葉自体は、なんだか立派なことのように思えるだろう。
初志貫徹だなんて言葉があるように、ブレない姿勢が信頼を生むし、何かを成し遂げるには継続的な努力も必要になる訳で。
実際に”やると決めたらやる”という教えのもと行動し続けた結果、成し遂げられたものも多い。

ただ打ち明けると、これが今や私を苦しめている原因の1つになっている。
老舗の居酒屋が出すおでんの大根のように、この思想が染み込んでしまった私の脳は、酷く視野が狭くなる時がある。
染みた方がいいのは味くらいのものだ。
強く染みついた思想というのは、偏りを生むのみ。
この自らを追い詰める極端な性格を直したいと思うのだけれど、大人になるとなかなか性格というのは変わらない。

例えば、運動系の仕事は高岸に任せる、と決めてからは、もうほぼ運動という運動をしていない。
ゴルフの仕事があるので、それだけは練習をして身体を動かすのだけれど、その他の運動は一切していないし、する気がない。
実際は適度に身体を動かした方が心身共に健康的なのだということも分かっているのだけれど、仕事も何も関係ない時に身体を動かそうとした時に、ふと思うのだ。

「お前は、一度誰かに任せた、と言っていたのに、それを反故にするような行動をしているのではないか」と。

誰に言われた訳でもないけれど、まるで当時の父親が私に叱咤したように、もう一人の自分が自分に対して問責してくる。
「動物として適度な運動が健康には必要なのか知らないけれど、知性を持った人間が、こうすると一度決めたのだから、それを全うすべきだ」と。

だから、そんな身体を動かすような時間があるのなら自分の役割を全うするために時間を使うべきだ、と考えて、基本的にはカフェや自室に籠って作業を続けることになる。

ああだこうだ言わずに身体動かせばいいのに。
そんなことは分かっているから、タチが悪いのだ。

私は仕事のクオリティを上げるために、反省ノートを書くことを日課にしている。
その日にあった、修正すべき点を見直して、次の現場に生かすことで、次の仕事のクオリティに繋げるのだ。
いろんな現場でモンスター達との邂逅を重ねていくと、いかに自分が凡才であるかを痛感するけれど、その凡才でも努力を重ねれば生き抜くことだって出来る、と自分が自分自身に証明したいのだろう。

その反省ノートを改めて読み返してみると、私の歪んだ性格が故の、よく分からない謎の懺悔の言葉が記されていた。

「今日は、午前中が休みだったので気分転換に散歩をして身体を動かしてしまった。どうせ気分転換をするならば、高岸に任せている運動に関わるものではなく、自分自身に寄与できる映画や本などでインプットを試みる方法の方が、より有意義な時間だったのではないか。なんとなくしてしまう行動ほど愚かなものはない。愚か者め。悔い改めろ。反省すべきだ」

なんという意味のない懺悔だろうか。
誰かにバレたとて咎められるような内容ではないけれど、間違いなく悔いている。
これを反省したところで何にもならないと分かっていながらも、上を目指すならもっとストイックに!と心が叫んでいるのが見てとれる。

変な人間だ。

実際には、この内容を心に刻み、今現在でも、気分転換は少しでも自分の役割として任されているような範囲の仕事に寄与するようなものを選んでいるし、やはり身体を動かす、という選択はしない。
変だと分かっていながらも、反省の内容を実生活にも反映させている。

自分に対しての了見がないのだろう。

なかなか自分に寛容になれず、そもそも寛容でいようと思ってもないし、他人に何を言われても変わらないし求めてもいない。というより変わろうと思っていない、というのが、本当に自分でも厄介だと思う。
強い信念のもと行動するのはいいけれど、強度が高ければ高いほど、折れやすくもなる。
危険な思想であるから、変われないのであるならば、上手く許容しながら、折り合いをつけていくしかない。
自分の歪んだ人間性というものと、上手く付き合っていきながら、心の柔軟性というものを確保していきたいものだ。

ー完ー

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