東洋哲学的で女子の悩みに寄り添いたい!

「すっと読めて、心が軽くなった」――そんな感想が殺到している哲学エッセイ『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』(2024年・サンクチュアリ出版刊)。著者であるしんめいPさんは、東大卒の元こじらせニートだったとか!?

めっちゃ頭いいのに、めっちゃダメな人の気持ちも分かってくれる...そんな救世主(?)がarwebに登場です!

第2回のお悩みは「”情熱”と”諦め”の気持ちのバランスが難しい」。

【お悩み】もともとは情熱を持って何かをしたり、怒りを燃料に変えて何が何でも進むタイプの性格だったけれど、大人になればなるほど「自分の意見はこの人には届かない」「言っても何も変わらない」と感じるようになってきていることが悩み。
特にがむしゃらにやっていればよかった(個人プレーが多かった)若い時代と比べ、人と仕事をしたり誰かを説得しないといけなくなってきた今の年齢(アラサー)に悩みだすようになりました。一人で何かを進める時には悩まないけど、人を介して仕事をしたり、チームで何かを取り組む時にこの悩みとよくぶち当たります。ある意味、”人に期待しない”ことは上手になってきているものの、昔の情熱を持って何かと戦う心や熱意が恋しい時もあって…。
誰かに期待する心と、程よく諦める心のバランスが難しいと感じる時、どうすればいいですか?(サケスキさん/30歳・女性)

ar編集部

アラサーの質問者さんが、年齢とともに仕事でのポジションも変わってきて、考え方も変わってきつつ、どう処理したらいいのか、というお悩みですね。

しんめいP

これは僕、めちゃくちゃ共感します。僕もアラサーのときにこれを思ってましたし、前回の火の話みたいに、情熱の火も消えちゃうのかな?と思ったりもしました。実際、歳をとってから『自分がこうしたい』『こうなったら素敵だ』みたいな気持ちを前面に出さなくなったんですよねぇ…。テンション上がることを思いついても、いったん保留してしまう、みたいなことが増えました。

ar編集部
どうして保留してしまうのでしょうか?
しんめいP

それが独りよがりだと気付いたんです。自分がいいと思った直感を信じても、意外とズレてることが結構あるんだなって思うことが多くなったんですよ。

ar編集部

ズレている、ですか?

しんめいP

その最たるものが、10年弱前、僕が30歳目前で芸人にチャレンジしたことなんですよ。あのとき自分は、自分の選択が最高だって信じ切っていたんです。でもやっぱり空回りをしたし、周りの意見に耳を貸せなくなっていたりもしましたし、プロフィールのとおり1回戦で敗退しましたし(笑)。それを経験したので、自分がいいと思ったものを信じすぎなくてもいいのかな?と思い始めたんです。

ar編集部

なるほど。しんめいPも20代の頃は情熱のままに突っ走るのが最高!と思っていた。でもだんだんと『意外と他にも選択肢はあるな』と立ち止まることが増えて、その経験から最近は情熱で突っ走ることが減ってきた、ということですね。

しんめいP

そうです。例えるなら…20代の頃って、”オフロード”をとにかく遠くまで行きたい!みたいな感じに思っていたんですよ。いろんな障害物にぶつかっても、情熱で乗り越えていったり、まわりの木とかをガンガンなぎ倒しながら進んでいってた。でも30代ぐらいになると『オフロードを走るより、周りをちゃんと見て安全な道を走ったほうが結局、早いんじゃん!』て気付けるようになるんですよね。

20代で走っていた”オフロード”は正解だった⁉ イラスト/おがわらあや

ar編集部

情熱に身を任せないほうが、結局は早くて効率的だと!

しんめいP

ついでに30代になるともう、脚の筋肉とかも衰えてきてるから、砂利道とかでこぼこしてる道よりは、平坦なところを通った方がいい(笑)。そのほうが長期的に見れば持続して走れるし、木とかも別になぎ倒さずに最初から生えてない道を走った方が早くて、疲れないんです。

ar編集部

わかりやすいです! それはしんめいPのように、誰もが年齢を重ねることで、経験則からわかってくるものなんですか?

しんめいP

そうですね。かつ、質問者さんのようにちゃんと20代で”情熱だけ”で無理したり突っ走った経験も、確実に大切だったと思います。それがあったから、広い視野で冷静に状況を見れるようになるし、そうしたほうが結局早い!って気づけるようになるんですよね。

ar編集部

質問者さんのこれまでは決して無駄ではなかったんですね。

しんめいP

そうです。ご質問に戻ると、諦めるのって怖いと思うんですよね。これまでは情熱があったから、木にぶつかったり石を踏んでもやってこれたのに、その情熱がなくなっちゃったら進めなくなっちゃうんじゃないか?という怖さ。でも案外、5~6年前の自分を振り返っていま僕が思うのは、そうでもないなって感じです。その当時は諦めだと思ってたものは、実は”冷静に周りを見ること”だったりするんですよ。

ar編集部

諦めではなかった?

しんめいP

はい。情熱と諦めの二元論じゃないんです。むしろその諦めという選択肢を増やした方が、視野が広がって『おや、こっちの道が歩きやすいな』って気づいたり、20代のときには想像もしてなかった風景に出会えたりするんだと思います。そこからまた違う情熱が湧いてくることだってあるんですよ。

ar編集部

違う情熱、ですか。素敵ですね!

しんめいP

たとえば僕だったら20代の頃は、服に気を遣ってるヤツって自意識過剰だと思ってて、黄色い無地の服しか着ないっていう謎のこだわりがあったんですよ。かなりキモかったんですけど(笑)。でもそれって独りよがりでしかないし、会う相手としては場にそぐわないから不快なんだろうなとあるとき気づいて。そのとき初めて、スタイリストさんに買い物に付き合ってもらって、上から下まで服を選んでもらったんです。そうしたらやっぱり、見える風景が全然変わったんですよ。

ar編集部

それもある種、謎のこだわりを”諦めた”とも言えますね。

しんめいP

はい。だからいま僕は、20代の自分が絶対許せなかった格好してます。それは当時の自分からしたらまさに”諦め”です。だって、黄色い無地の服を着ることが情熱だと思ってたから。でも多分、いまの僕のほうがいいじゃないですか(笑)

ar編集部

確実にそうだと思います! そして、諦めというのは言い方を変えれば”執着を捨てる”ことでもあると言えそうですね。

しんめいP

そうなんです。仏陀(ブッダ)は、執着を捨てたほうがよいと説きました。でもそんな、捨てろって言われて捨てられるものでもないですよね。そこで仏陀は『執着をただ見つめなさい』と言ったんです。

ar編集部

ただ見つめる…?

しんめいP

『あー、自分いま、怒ってるなぁ』『寂しい気持ちだな』みたいに、ただ自分の状態を見つめるんです。仏教ではヴィパッサナー瞑想と呼ばれる、自分の心をひたすらに見つめる瞑想があります。瞑想っていうと、『結跏趺坐』(けっかふざ)と言われるように姿勢よく座ってじっとしてるイメージがありますが、スリランカとかでは、歩きながらや寝転がりながらでも瞑想していいという教えもあるくらい、もっとカジュアルでいいんです。

ar編集部

カジュアルな瞑想で、自分の心を観察するんですね。

しんめいP

それをすると、なぜ自分がいまその気持ちなのか、原因が見えてくることもあるし、同じことを繰り返さなくなったりもします。仕事とかでも、同じミスを繰り返しちゃうことってありますよね。『またこのこのミスをしてしまった、自分はダメだ』と思ってしまうと、それは状況をストーリーで上塗りしちゃってるから、観察から遠ざかっています。見ようと思っても見れてない。そうじゃなく、ただ自分の状態を見つめることが大事なんです。

ar編集部

なるほど。たしかに自分の気持ちや状態って、意識しないと観察することがないですもんね。

しんめいP

そうやって観察するうちに、自分ってコレに執着しているんだなと気が付いて、いつの間にかその執着を手放せていたりするんですよ。カジュアル瞑想、おすすめです。

~本日のまとめ~
年齢とともに情熱を失うことは諦めではなく、視野を広げてよりよい生き方に出会うためのチャンスである。自分が抱える執着を捨てるには、まず自分の心を観察すること。

Text: Shinoda Sae
Illustration:おがわらあや