シンガーソングライターの瀧川ありささんが、コンセプトミニアルバム『東京』を6月27日(水)に発売します。同作では「東京生まれ東京育ちというコンプレックス」をもとに書いた表題曲「東京」をはじめ、東京生まれ東京育ちの彼女から見た「東京」という街が綴られています。

アルバムの発売を記念して、同じく東京生まれ東京出身のライター・カツセマサヒコさんに『東京』を聴いてもらい、そこから膨らませてエッセイを執筆してもらいました。東京出身の人、地方から上京した人、それぞれの記憶に少しずつ触れていく、カツセさんから見た「東京」の姿です。


東京に生まれて、東京で育った。

子が親を、親が子を選べないように、生まれ、育つ街は自分では選択できないものの一つだ。比較することも選り好みすることもできないから、目の前に広がる東京の景色は自分にとってずっと「当たり前の世界」だった。

SNSがなかったあの頃は、「同じマンションに住む友人」や「クラスメイト」といった、地に根付いたコミュニティだけが自分の交友関係のすべて。同じ趣味・嗜好をきっかけに出会えた仲間などいないし、地方の友人なんて作りようもない。

だから、他者と接して初めて「自分」を意識するように、僕が「東京」を意識するようになったのは、大学に進学して初めてできた岩手県出身の友人・吉井に出逢ってからだった。

「東京生まれなのに、何も知らないんだな」

吉井に都内の古着屋を案内して「もらっている」とき、彼はそう言って僕をよくからかった。青山、中目黒、代官山。僕よりもはるかに東京に詳しかった吉井は、僕が行きたいと言った場所にすべて連れていってくれた。

吉井は高校時代から洋服が好きだった。服を買うだけに留まらず、自分でストレートデニムの裾に絞りを作ったり、デニムジャケットを染色したりして周りを驚かせた。原宿・表参道でファッションスナップを撮られることもしょっちゅうで、それは中学・高校時代の僕にとって憧れの一つで、彼は僕よりもよっぽど「東京人」に思えた。

そんな吉井に「何も知らないんだな」と言われると、生まれ育ったはずの東京を遠い存在のように思えた。そして、これまで当たり前だった景色が、特別な場所のようにも思えたのだった。


吉井と同じタイミングで仲良くなったもう一人の友人に、亀川という男がいた。亀川は広島県出身で、22歳にして大学入学という、僕が通っていた私立文系学部にしてはやや珍しい経歴の持ち主だった。

亀川は原宿駅から徒歩圏にある代々木公園の近くで一人暮らしをしていた。代々木公園といえば都内を代表する大きな公園の一つである。そこで亀川は、平日・土日問わず、朝から日が暮れるまで公園の芝生に寝転がっては、ビールを飲んで読書をするのが日課だった。

どこか達観した学生だった。どれだけ単位が危うかろうが焦りもせず、90分授業の残り10分で到着することもしばしばだった。高身長かつ欧米的な顔立ちをしている彼を女性陣もモデル事務所も放っておくわけがなく、亀川の姿は吉井以上に雑誌の誌面でよく見かけた。


大学2年の夏。日が沈みきる前から新宿・歌舞伎町で飲んでいたときに、二人に地元の話を聞いたことがある。

吉井は故郷を「帰りたくない場所」と言った。彼の住んでいた街はターミナル駅の周辺数キロだけが栄えていて、少し郊外に出れば大型のショッピングモールに依存せざるを得ない「選択肢の少ない街」だったらしい。「じゃあデートとかどうすんの? みんなショッピングモールに行くわけ? クラスメイトとか会いまくりじゃん」と冗談めいて言ってみると、「いや、本当にそうだから。バカにすんな」と吉井は笑いながら小突いた。

そんな吉井が僕よりも都会的なセンスを持っていられたのは、狭く同調圧力が強い地元のコミュニティに飽きて、一人部屋に引きこもってインターネットで好きな情報を仕入れまくっていたかららしい。その中でも特に好きだったアパレルに関しては、地元にいいショップがあった場合にはリアルの場で繋がりを築いて、情報収拾と交流を図っていたそうだ。

結果、「都市部にいなくとも情報は集められるが、都市部にいなければそれに触れることはできない」と結論づけた吉井は、高校在学中のうちに上京資金を貯めて、大学進学のタイミングで東京に出てきた。高校時代はアルバイトすらしたことがなかった僕にとって、そのバイタリティはひたすら魅力的に映った。


冷房の効きが悪い店内で「飲み放題2,000円メニュー」に含まれたケミカルな味がするカシスウーロンのピッチャーに酔いながら、亀川も僕の知らない「東京」について語る。

亀川は広島でも栄えた地域に住んでいたから、遊びに困ることはさほどなかったというし、交友関係も広そうだった(彼の友人は大抵モデルや何らかの店のオーナーやDJなどで、どうしてそんな繋がりがあるのか謎だったがいつもはぐらかされた)。

それでも亀川が東京に出てきたのは、「好きなミュージシャンがツアーをしても広島には来ないから」といったシンプルすぎる理由と、「お世話になった人たちがみんな東京で頑張っているから、自分も恩返しをするなら東京かな、と思った」という酔いが覚めるほど真っ直ぐな理由からだった。

二人とも、「地元にないけど、東京にあるもの」を求めて上京してきた。だから僕は「東京にないもの」を考えてみたけれど、東京以外の土地に住んだことがなかったせいか、答えが浮かばなかった。そして吉井と亀川を見て、その行動力や目標に向けて走る力こそ「自分にないもの」ではないかと、ぼんやり思った。

亀川は、「いつかは広島に戻るかもなあ」と笑いながら言い、吉井は、「俺は絶対戻りたくないわ」とグラスを回しながら言った。


僕が吉井と亀川に憧れていたのは、二人がステレオタイプ的な「東京人」だったからだけではない。彼らは一見華やかに見えるが、親からの仕送りがほぼない中で学費と生活費を自分で稼ぎつつ自由を手にしていた。周りと変に群れることもなく、自分の生活と人生と趣味と欲望に忠実に生きられる人間だった。そうした人間に、高校時代までの僕は出会ったことがなかった。

一人暮らしの経験すらなかった僕にとって、「自由」が持っている面倒臭さと開放感の両輪を経験している彼らは、僕の何倍も大人に思えたのだった。そういう意味で、当時の僕は、僕以上に東京的すぎる二人にコンプレックスを抱いていたのかもしれない。

二人が授業の合間に喫煙所に行くといえば、吸いもしないくせに自分もそこに足を運んで談笑に混ざった。吉井が新しい古着屋を見つけるたびに同行し、亀川がモデルとしてファッションショーに出るたび楽屋まで差し入れを持って行った。

少しでも彼らのそばにいることで、自分も「東京の最先端」に触れている気分になれたのだった。それらの行動は、彼らに触れることで初めて知ってしまった「東京」という舞台から引き剥がされぬために、必死にしがみつこうとしているだけのようにも思えた。東京出身の僕が、東京人すぎる二人から見てダサい人間にならないためにしたことの全てが、今思えば一番ダサかった。