ティモンディ前田裕太が今週も皆さんの乙女心を受け止める時間がやってまいりました。
お仕事、学校などなど、日々にお疲れ気味の女子たちの心を癒す連載

【ティモンディ前田裕太の乙女心、受け止めます!】

今宵は「色気とエロの違いについて」についてのお話。

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色気とエロは混濁されやすい。
当然、ニアイコールの意味で使われることもあるけれど、若干の言葉に差がある。

色気があると言われる場合でも、それは単なるエロである場合が多々あるし。
Tiktokで肌を露出し無駄に乳を揺らして踊る行為はエロである。
目的もなく自己承認欲求を満たすための場合が多いのだろうけれど、あんなの、その人の人間性を評価してるんじゃなくて表面上のエロしか見てないのに、それでチヤホヤされて何故自己承認欲求が満たせるんだろうね。

その評価なんて年齢を重ねていけばいくほど維持するのが難しくなってくるのに。
水着姿の写真ばっかりアップしたり、Instagramが実質エロ本みたいな内容になってる人もいるけれど性で人目を集めようとする思想が気に食わない。
まあ見ちゃうんだけど。

エロとは、その容姿を見た者が、目合を連想する、したくなるものと定義する。
身体のラインが出るような服を着たり、肌を露出すれば、ある種それは演出しやすい。
倖田來未はエロかっこいいという謳い文句で世に出てきたので、倖田來未−カッコいい=エロがエロの正体なのだろう。

エロそのものは悪いものではないけれど、それのみを売り物や見せ物にするのは如何なものだろうと思ってしまう。
この点、色気は異なる。
肌を露出しなくとも、色気は出る。
佇まいだったり、挙動だったり、その人が重ねてきた経験が土壌となって外に放たれる所作や表情に色気というものは滲み出るのだ。

私は歳を取れば、竹野内豊のようなムンムン色気を帯びた大人になれると思っていたけれど、待てど暮らせどその兆候はない。
どうやら生きてきて分かったことは、色気とは人生経験。

酸いも甘いも薩摩芋、沢山の人やものに触れて得たものを消化して、纏う雰囲気こそが色気と呼ばれるものである。
残念ながら白球を追いかけるだけの青春時代を過ごし、社会に出るまで法学を嗜むのみの人生で、世の中に対する見識も常識もない私にはこの色気というものは一滴たりとも出せやしないのだけれど、これからは、次世代の長瀬智也を目指して、多岐にわたる困難へ率先して立ち向かっていく所存である。

今は鳥取砂丘もかくやと言うほどカラカラの色気ではあるが、今後、数々の苦境を跳ね返し続けた先に待つ10年後の私の色気に御令嬢達は気をつけるがいい。

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